『STAND BY ME ドラえもん』ってどうなの?


映画『STAND BY ME ドラえもん』予告編 - YouTube

 

【ドラ泣き】というコピーが面倒くさいこの作品、実はけっこう楽しかったんです。

 

私は物心ついたときからドラえもんがある環境で育ち、原作のてんとう虫コミックスを一通り読んで、両親からも藤子F不二雄の書いていない「ドラえもん学習シリーズ」を買い与えられる程度にはドラ充でした。

 

 

だから、2005年に声優が変更されたときは「なんだかなあ」と思ったし、この作品の予告編を見たときも3DCG化されたキャラクターに慣れることが出来ず、全然期待しないままに鑑賞することになりました。

 

 

この作品、映画としてはおそらくつまらない。

というのは、この作品は【ドラ泣き】のキャッチコピーのとおり、ドラえもんの原作の中から「泣ける」といわれる作品を何本かまとめてひとつの物語にしたもので、一話完結の短編をつなげたために全体の統一性が薄いんです。

 

あと、もうひとつ。

これはドラえもんを知っている人ほど起こりやすいと思いますが、原作がマンガであり、長年テレビアニメとして見られていたモノが3DCG化されるとキャラクターの動く枚数がずっと多くなります。今まで秒数まで表示されていた時計に、コンマ以下の数字が表示されるような感覚に近いでしょうか。

それによってキャラクターが静止する時間がなくなり、細かい仕草を表現することも出来ますが、逆にオーバーリアクションだと思うシーンも多く感じます。

タケコプターで空を飛ぶシーンみたいに背景ごとキャラクター自体が動くシーンはすごく良いんですが、止まった場所でのギャグも多いドラえもんにおいては細かすぎる動きがキャラクターをあざとく見せてしまっていると思いました。

 

 

でも、この作品は楽しい。

いや、うれしいのかもしれません。

それは「ドラえもんの世界」がこの完成度の3DCGで見ることが出来たから。

のび太の部屋ってこんなにせまいんだとか、ひみつ道具の質感やファンクションが未来っぽくリファインされているとか、タイムマシンやタケコプターが立体的に動いたとか、ドラえもん達のいる世界の実在感とひみつ道具を使ったときに変わる世界の見え方は、3DCGでしか表現できないことでした。

 

そして『ドラえもん』が世界に負けないレベルの3DCG作品だったこと自体。

かつて、未来の世界を描いた作品の代表といえば「鉄腕アトム」がありました。

日本において「アトムの世界」 を目指して技術が進歩していった時代があったんだろうと思います。でも私自身、原作を読んだことはありますが、その時代を知らない。

アトム誕生は2003年という説がありますが、そこから10年経ってしまいました。

アトムの功績は偉大ですが、あえていうならさすがに古い。

 

一方、ドラえもんの誕生は2112年。まだ100年の猶予があります。

未来世界を描いたSF作品の素晴らしいところは、そこに届くこと自体が目標になり得る点です。アトムの世界には間に合わなかった。でもドラえもんの世界には間に合うかもしれない 。

その意味で3DCGという新しい技術を用いてつくられた作品が『ドラえもん』だったことは、ドラえもんを読んで育った世代の私にはすごくうれしいことなんです。

 

作品中でのび太の結婚相手を確認するために、タイムマシンで未来世界に行くシーンがありますが、考えてみるとあれはおかしい。

というのは、のび太が10歳でプロポーズが十数年後だとしたら、あんなに世界が進歩しているはずはないのです。作中で描かれた未来世界はロボットこそ出てこないにせよ、ドラえもんの生まれる22世紀の世界観に近いモノでした。

これは製作者側も意図していることだと思いますが、あえて22世紀に近い映像を3DCGで再現することで、未来の手触りを観客に託したのではないでしょうか?

だってそれこそが、『ドラえもん』が読み継がれてきた意味だもの。

 

 

 最後に大山ドラからわさびドラに交代して、『ドラえもん』を見る気を失っていたという人は『STAND BY ME ドラえもん』をぜひ観るべきだと思いますよ。

わさびドラ大山ドラの違いは語尾の伸ばし方にあって、わさびドラは「ごめんねぇ~」みたいにかわいさを強調するんですが、そのしゃべり方のねっとり感が3DCGアニメの細かいところまで演技させられる点と相性が良くて、大山ドラよりもわさびドラの方が3DCG化するには向いているんじゃないかと思いました。

 

【ドラ泣き】はまあ…宣伝戦略とわりきってしまえば、楽しめると思います。

それよりも3DCGとなった「ドラえもんの世界」を見逃してしまう方がもったいないと思うので、迷っているなら見に行った方がイイと思います。

ストーリーはあんまり気にしないで、小ネタばっかり探すのも楽しいよ!

さりげなく星野スミレとかあばらやの名前も出てくるしね。

ドラえもん愛の方向が間違っている気もするけど!

『思い出のマーニー』と信子ちゃんの顔のしわ

 
 
『思い出のマーニー』観ました。その時の劇場の入りは4割ほど。
 
 
感想としては、前半の杏奈が干潟をわたって湿っ地屋敷まで行くくだりがとにかく最高!
映画序盤、周囲に馴染めない杏奈がぜんそくの療養のために北海道に行くが、そこにも馴染むことが出来ず、人目を避けるようにしてうつむいて歩くあの感じ。
一方で、ふと見つけてしまった湿っ地屋敷にたいして興味を抱いた杏奈が、普通の感覚ならば「怖い」「気持ち悪い」と思って近づこうとしないところを、なんの躊躇もなく近づいていくあの様子。
 
 
「他者の関心」に対する忌避と「自己の関心」に対する盲目さはコミュ障表現の二本柱であり、基本的に根明の宮崎監督や、論理をキャラクター化する高畑監督の描かない杏奈の「根暗さ 」は従来のジブリキャラクターにはない部分で、アニメ評論家の藤津亮太さんが「エヴァ」の碇シンジに似ていると評していましたが、まさにその通りと感じました。
  
 
今作で私が気になったのはキャラクターの顔の描き方です。
冒頭部の「この世には目に見えない魔法の輪があって…」という杏奈のモノローグから始まり、世の中に馴染める人間と馴染めない人間がいると明示されますが、それと同様にキャラクターの顔の描き方も
しわのあるなしで2種類に大別されます。
 
 
しわのない顔で描かれるのは杏奈、マーニー、あるいは「海のおんじ」こと十一らの湿っ地屋敷に魅せられた人々。
しわのある顔で描かれるのは杏奈の療養先の夫妻、そしてみんな大好き信子ちゃんらの湿っ地屋敷に関わらない人々です。
 
 
ジブリ作品におけるしわのあるなし問題で重要な作品といえば、ジブリ思い出シリーズ第一弾「おもひでぽろぽろ」ですが、そのキャラクターデザイン、作画監督を務め、ジブリにおけるしわのある顔を発明した近藤喜文さんに今作『思い出のマーニー』の作画監督を務めた安藤雅司さんは強く影響を受けていています。近藤喜文さんは宮崎、高畑の後継者としてもっとも期待され『耳をすませば』の監督も務めましたが、47歳の若さで亡くなってしまいました。
 
 
『思い出のマーニー』はジブリの象徴である宮崎駿監督引退後のジブリ再出発の作品であり、そのキャラクターデザインが顔にしわのない宮崎駿的な描き方と、顔にしわのある近藤喜文的な描き方に分かれたというのは、従来のジブリの継承と新しいジブリとなるはずだったモノのせめぎ合いのように感じられます。
 
 
今作では杏奈を中心として3人の同世代の女の子による組み合わせの変化も行われています 。
それは「杏奈×マーニー」「杏奈×彩香」「杏奈×信子」の3つですが、このなかで最も杏奈との対比が強いのが「杏奈×信子」の組み合わせです。
 
 
信子は初登場時からその造型で観客を驚かせて、私自身も物語が進むまで杏奈と同世代と思わず、母親と一緒に歩いている姿はPTAの役員同士のようでした。性格もその造型と連動していて、みんなの輪に加わろうとしない杏奈を注意し、積極的に輪の中に加えようと促してくれます。
 
 
しかし、冒頭のモノローグからわかる杏奈の思考からすれば、杏奈は輪の外側の人間であり信子は輪の内側の人間。信子が杏奈に向ける関心は、杏奈にとっては嫌悪する「他者の関心」でしかなく、両者の言い争いのあとに信子が見せる<和解の姿勢も、「ふとっちょブタ」というこの作品を代表する素晴らしい暴言によって壊されてしまいます。
 
 
このように「杏奈×信子」の関係性は輪の内側と外側の断絶、あるいは顔にしわのある側ない側の断絶という杏奈の抱える問題、つまりはこの映画の解決すべき問題を端的に表していたはずなのに、映画自体は「杏奈×マーニー」の依存関係の卒業と「杏奈×彩香」の関係が生まれることによる広がりによってのみ、杏奈の成長を描いてしまって、「杏奈×信子」の和解が口で説明しすぎといわれる終盤であるかないかの謝罪でサラリと流されてしまっているのが残念でした。
 
 
あるいは顔にしわのない人物だった杏奈が顔にしわのあ る人物である信子に向けて、しわを作って笑いかけるみたいなシーンがあれば、言葉ではないアニメーションだからこそ出来る和解の表現になり得たのではないかと思います。
また、それが「杏奈×マーニー」による自身の問題の解決、杏奈と母親の家族の問題の解決に加えて、杏奈と他人という内面にも血縁にも寄らない、冒頭から明示されていた輪の内側と外側という問題の解決としてこの映画の山場にもなり得たのではないでしょうか。
 
 
 

ノルシュテイン『話の話』の場面と音楽の転換の推移

ユーリ・ノルシュテイン『話の話』のシーン移行と音楽の転換を時系列で追っています。

 [00:00~※※/○○]の形で表記しています。上に直前の状況を書いて場面がなにがキーになって移行しているかをわかるようにしているので、そちらも参考にしてみて下さい。

参照したyoutubeの動画も一緒に貼っておきましたので、時間軸を追いながら確認していただけるとわかりやすいかと思います。

 

表記の見方

シーン変更の直前

[場面]              [音楽]        

 

【作品内の舞台】

「狼の子と廃屋」…以下狼と表記

「光のなかの海辺の家」…以下海辺

「カラスと子供」…以下カラス

「ダンス会場」…以下ダンス

 

【作品内使用楽曲】

ロシアの子守歌「小さな灰色の狼がやってくる」…以下子守歌と表記

U・ペテルブルグスキー「疲れた太陽」…以下タンゴ

J・S・バッハ「平均律クラヴィア曲集第一巻」…以下バッハ

モーツァルト「ピアノ協奏曲第四番ト短調K・41第2楽章」…以下モーツァルト

 


Skazka Skazok (Yuri Norstein, 1979) - YouTube

リンゴのアップから赤ん坊を見つめる狼の子

[00:00~01:30/狼]                 [00:00~01:08/子守歌]

 

カメラが屋内の光のなかへ

[01:30~03:38/海辺]                [01:35~03:38/バッハ]

 

間に列車が走るシーン

[03:38~06;09/狼]                 [05:40~06:09/子守歌]

 

狼の子、女性がくべる暖炉の火を見つめる

[06:09~09:09/ダンス]               [06:09~08:09/タンゴ]

                         [08:58~09:09/タンゴ]

 

間に列車が走るシーン

木の葉を見つめる目のようなもの

狼の子が暖炉を火を見つめる場面に戻る

[09;48~09:56/狼]

 

狼の子と女性がいる屋内から右へスライドしてシーン移行

[09:56~12:03/カラス]                                                    [09:56~11:36/モーツァルト]

 

ダンスで登場するような人物が通り過ぎる                  [11:40~11:59/タンゴ]

列車の汽笛の音

[12:03~13:32/狼]

 

芋を焼きながら狼の子が鼻歌                                       [13:20~13:32/タンゴ/狼の鼻歌]

[13:32~14:33/ダンス]                                                    [13:32~14:33/タンゴ]

 

手つかずの食事から芋が焼き終わるシーンへ移行

[14:35~16:57/狼]                                                          [15:15~15:34/タンゴ/狼の鼻歌]

                                                                                    [16:08~16:19/子守歌]


Skazka Skazok (Yuri Norstein, 1979) - YouTube 

今度は狼の子が屋内の光のなかへ

[16:57~20:01/海辺]                                                             [16:57~22:10/バッハ]

 

旅人が海辺の家族のところを通り過ぎる

海辺の詩人の左側にいた空想上の魚が移動してシーン移行

アップにされた机の上にはハープと紙と瓶に入ったロウソク

[20:01~21:09/狼]

 

狼を見て目を見開くも、再びまどろむ赤ん坊

[21:09~22:06/海辺]

 

海辺の家族は父親だけが暗い海へ

[22:06~26:02/狼]                                                                [24:39~26:02/子守歌]

 

画面は右側へスライド

リンゴのアップになってシーン移行

[26:02~26:47/カラス]                                                        [26:02~28:06/モーツァルト]

 

空想をする少年を見つめる狼の子

[26:47~29:02/別れを連想させる各シーン]

狼  →暖炉の火がともらない家

海辺 →牛と遊ばなくなった女の子

   →詩の書けない詩人

カラス→落下するリンゴ

ダンス→闇へ消えていく集団 

 

列車が画面左へ通り過ぎて汽笛の音だけが残る

立体交差の上の街灯がともりエンドロール                       [28:15~29:02/タンゴ]

 

まとめ

①シーン変更は必ず「狼」の場面が間に挟まれる

②光や火、鼻歌を契機にシーン変更が行われることが多い

③画面のスライドする方向も意味がある(ありそう)

④家族の関係性の変動

 狼  →赤ん坊が増える 女性がいなくなる

 海辺 →父親、牛がいなくなる

 カラス→両親と子供の隔絶

 ダンス→夫、あるいは恋人がいなくなる

あとはシーンを超えて登場する狼の子と詩人や赤ん坊の意味などを考えると、もっと繋がりがわかりやすくなるかも知れません