『思い出のマーニー』と信子ちゃんの顔のしわ

 
 
『思い出のマーニー』観ました。その時の劇場の入りは4割ほど。
 
 
感想としては、前半の杏奈が干潟をわたって湿っ地屋敷まで行くくだりがとにかく最高!
映画序盤、周囲に馴染めない杏奈がぜんそくの療養のために北海道に行くが、そこにも馴染むことが出来ず、人目を避けるようにしてうつむいて歩くあの感じ。
一方で、ふと見つけてしまった湿っ地屋敷にたいして興味を抱いた杏奈が、普通の感覚ならば「怖い」「気持ち悪い」と思って近づこうとしないところを、なんの躊躇もなく近づいていくあの様子。
 
 
「他者の関心」に対する忌避と「自己の関心」に対する盲目さはコミュ障表現の二本柱であり、基本的に根明の宮崎監督や、論理をキャラクター化する高畑監督の描かない杏奈の「根暗さ 」は従来のジブリキャラクターにはない部分で、アニメ評論家の藤津亮太さんが「エヴァ」の碇シンジに似ていると評していましたが、まさにその通りと感じました。
  
 
今作で私が気になったのはキャラクターの顔の描き方です。
冒頭部の「この世には目に見えない魔法の輪があって…」という杏奈のモノローグから始まり、世の中に馴染める人間と馴染めない人間がいると明示されますが、それと同様にキャラクターの顔の描き方も
しわのあるなしで2種類に大別されます。
 
 
しわのない顔で描かれるのは杏奈、マーニー、あるいは「海のおんじ」こと十一らの湿っ地屋敷に魅せられた人々。
しわのある顔で描かれるのは杏奈の療養先の夫妻、そしてみんな大好き信子ちゃんらの湿っ地屋敷に関わらない人々です。
 
 
ジブリ作品におけるしわのあるなし問題で重要な作品といえば、ジブリ思い出シリーズ第一弾「おもひでぽろぽろ」ですが、そのキャラクターデザイン、作画監督を務め、ジブリにおけるしわのある顔を発明した近藤喜文さんに今作『思い出のマーニー』の作画監督を務めた安藤雅司さんは強く影響を受けていています。近藤喜文さんは宮崎、高畑の後継者としてもっとも期待され『耳をすませば』の監督も務めましたが、47歳の若さで亡くなってしまいました。
 
 
『思い出のマーニー』はジブリの象徴である宮崎駿監督引退後のジブリ再出発の作品であり、そのキャラクターデザインが顔にしわのない宮崎駿的な描き方と、顔にしわのある近藤喜文的な描き方に分かれたというのは、従来のジブリの継承と新しいジブリとなるはずだったモノのせめぎ合いのように感じられます。
 
 
今作では杏奈を中心として3人の同世代の女の子による組み合わせの変化も行われています 。
それは「杏奈×マーニー」「杏奈×彩香」「杏奈×信子」の3つですが、このなかで最も杏奈との対比が強いのが「杏奈×信子」の組み合わせです。
 
 
信子は初登場時からその造型で観客を驚かせて、私自身も物語が進むまで杏奈と同世代と思わず、母親と一緒に歩いている姿はPTAの役員同士のようでした。性格もその造型と連動していて、みんなの輪に加わろうとしない杏奈を注意し、積極的に輪の中に加えようと促してくれます。
 
 
しかし、冒頭のモノローグからわかる杏奈の思考からすれば、杏奈は輪の外側の人間であり信子は輪の内側の人間。信子が杏奈に向ける関心は、杏奈にとっては嫌悪する「他者の関心」でしかなく、両者の言い争いのあとに信子が見せる<和解の姿勢も、「ふとっちょブタ」というこの作品を代表する素晴らしい暴言によって壊されてしまいます。
 
 
このように「杏奈×信子」の関係性は輪の内側と外側の断絶、あるいは顔にしわのある側ない側の断絶という杏奈の抱える問題、つまりはこの映画の解決すべき問題を端的に表していたはずなのに、映画自体は「杏奈×マーニー」の依存関係の卒業と「杏奈×彩香」の関係が生まれることによる広がりによってのみ、杏奈の成長を描いてしまって、「杏奈×信子」の和解が口で説明しすぎといわれる終盤であるかないかの謝罪でサラリと流されてしまっているのが残念でした。
 
 
あるいは顔にしわのない人物だった杏奈が顔にしわのあ る人物である信子に向けて、しわを作って笑いかけるみたいなシーンがあれば、言葉ではないアニメーションだからこそ出来る和解の表現になり得たのではないかと思います。
また、それが「杏奈×マーニー」による自身の問題の解決、杏奈と母親の家族の問題の解決に加えて、杏奈と他人という内面にも血縁にも寄らない、冒頭から明示されていた輪の内側と外側という問題の解決としてこの映画の山場にもなり得たのではないでしょうか。